橋本神社(下野市橋本)

神社

橋本神社
(はしもとじんじゃ)
下野市

橋本神社は下野市(旧石橋町)の姿川沿いに広がる古墳群に鎮座します。
明治時代に台風によって倒壊した集落内11の神社が合祀されたことで、総勢9柱の神様が祀られています。

ご由緒

明治35年の大暴風雨(足尾台風)により、集落内に鎮座していた11社の社殿並びに立木が倒破したため、氏子一同が協議を行い字鷲宮の現在地へ合祀することが決定され、明治37年に拝殿・幣殿・本殿等が新築され橋本神社が創始された。
(参照:下野十七神社公式サイト

合祀された11の神社
字天神の天満宮、字館の内の神明宮・愛宕神社・稲荷神社・神明宮、字鷲宮の八坂神社・稲荷神社・大杉神社・諏訪神社・雷電神社・猿田彦神社

ご祭神

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
日本神話に登場する高天原を統べる主宰神であり皇祖神。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊祓をしたときにその左目から生まれたといわれる。
月読命(つくよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)は弟。

須佐之男命(すさのおのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)の弟で、高天原(たかまがはら)では悪、罪、穢(けがれ)の化身、葦原中国(あしはらのなかつくに)では開祖の神とされる。
三種の神器の一つ草那藝之大刀(くさなぎのたち)を天照大御神に献上。

武御名方命(たけみなかたのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)の子であり事代主命(ことしろぬしのみこと)の弟。
武神としての性格を持ち、葦原中国平定において国譲りの際に武甕槌命(たけみかづちのみこと)と力比べを行ったが敗れて信濃諏訪湖に逃れ同地に鎮まった。
長野県の諏訪大社の祭神として祀られていることから諏訪大明神等とも呼ばれる。

稲倉魂命(いなくらたまのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)との子。
穀物の神であるが「古事記」「日本書紀」ともに性別や事績の記述はない。
伏見稲荷大社の主祭神であり稲荷神(お稲荷さん)として知られる。

大山祇命(おおやまつみのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の子。
全国の大山祇神社や三島神社の主祭神。

火産霊命(ほむすびのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の最後の子。
火の神が故に出産時、母である伊邪那美命に火傷を負わせ衰弱死させたことから、父伊邪那岐命に十拳剣(トツカノツルギ)天之尾羽張(アメノオハバリ)で殺されてしまった。

大雷大神(おおいかづちのかみ)
黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉津大神(よもつおおかみ)となった伊弉冉命に化成した八雷神(やくさのいかづちのかみ)のなかのひと柱。

猿田彦命(さるたひこのみこと)
天孫降臨の際に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国にある五十鈴川のほとりに鎮座したといわれ、のちに庚申信仰や道祖神とむすびつけられ信仰された。
配偶者は天宇受売命(あめのうずめのみこと)。

菅原道真公(すがわらみちざね-こう)
平安時代の学者であり政治家。
醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、左大臣藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され現地で没した。
現在は学問の神である天神様として親しまれる。

ご神徳(ご利益)

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景色

参道

まわりよりも一段高く打たれたコンクリートの参道です。
鬱蒼と茂る杜に遮られ太陽光があまり届かないせいか、表面に苔が生え趣深い姿を見せています。

手水舎

参道を進んで左手にある手水舎は大谷石の柱2本で建つ珍しい形をしています。

拝殿

拝殿には左右非対称の高さに注連縄が奉納されています。

奥に進むと本殿を拝むこともできます。

神楽殿

拝殿の右手には土台に手水舎同様大谷石が使われた神楽殿が並び建っています。

境内社と橋本神社古墳群

境内には小さな2基の円墳があり、それらは橋本神社古墳群とよばれています。
古墳の頂には庚申塔が、その周りにはいくつかの石祠が建てられています。

アクセス

住所
栃木県下野市橋本612
駐車場
あり
最寄り駅
JR自治医大駅から約2.5㎞

 

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